⑦自分の「適性」とは

E-roomへようこそ。このブログでは、学校現場における小論文指導の現実について、学校の先生を対象にゆるーく語っていきます。バックナンバーと合わせてお楽しみください。

前回は、「自分ストーリー」を組み立てるために必要な「材料」を選別するポイントについてお話しました(→前回の投稿)。今回は志望学部や職業への「適性を意識する」ということについてお話します。自分にどんな適性があるのかという判断って難しいですよね。ここでは一つの考え方をお示しできればと思っています。



目次

自分の知られざる適性

最初にわたし自身のことをお話しますね。けっこう長いので、この章の最後まで軽く読み流す感じで結構です。

わたしはごく平凡な男の子としてそだちました。可もなく不可もなくっていう感じで。勉強もスポーツも人間関係を築くのも、平均か平均よりちょっと上(この「平均よりちょっと上」っていうのがわたしのささやかな矜持)。何かの能力に抜きんでているということはなく、よって特に目立ちもせず、かといって全く存在感がないということでもない、どこにでもいそうな普通の男子でした。人間関係は良好で、いい仲間にも恵まれてきたし、自分で言うのもなんですがとても温厚な性格なのでだれかと大きなトラブルを起こしたということもない。まあ、傍から見ればあんまり面白みのない人間かもしれませんね。これといった特徴がない。
で、そういうわたしが教師になったんですけども、これもいたって普通の平均的な先生。先生としての評価は悪くはなく、生徒からはそこそこ慕われ、部活動も持ったりしてそれなりに充実した教師生活を歩んできたわけです。そんなわたしも30歳を過ぎるころからいろんな仕事を任されるようになり、今までやってこなかったような仕事もどんどんまわってくるわけですね。これはどんな職場でもそうだと思います。年齢を重ねていくとそういう感じなってくるものですよね。
40歳を過ぎたあたりから、ほんとうに嫌な役回りがやってきました。誰かの上に立つ仕事です。「○○長」っていう名前がつくやつですね。その中でもとくに嫌だったのが「生活指導部長」でした。これは簡単に言えば生徒を叱る役目ですね。ほかのどの先生よりもしっかりと叱らなきゃいけない。叱るだけならまだましで、生徒の前で訓示みたいなのを述べなきゃいけないし、問題を起こした生徒の保護者への対応もやらなきゃいけない。先生方にも生活指導の仕方を指示しなきゃいけないし、校則のあれこれについても考えなきゃいけない。今思い出しても本当に大変だったなと思います。
昔から事なかれ主義で平和に暮らしてきたのんき人間でしたから、トラブルは極力避けるように生きてきたんですけれども、ここに至ってトラブル処理みたいな仕事が回ってきたわけです。困りましたね。分掌を打診されたときは固辞したんですけども、こういうこともやらなきゃいけない年齢だと上の人に説得されて仕方なく引き受けました。

ここでやっと「適性」の話になります。(回りくどくてすいません)
こういうわたしに生活指導部長としての適性はあるのかどうか。
自分自身ではこれっぽっちも、かけらも、微塵もないと思っていました。
管理職は、私を指名したくらいですから、適性がまったくないとは思っていなかったはずです。(適材とも思ってはいなかったでしょうが。人材がいなかったんでしょうね)

そんな感じで生活指導部長の仕事が始まったんですが、意外とこなせたんです。その仕事を。これは自分でも驚きでしたね。自分で言うのもなんですが、わたしが知っている過去の生活指導部長と比べてみても遜色なくうまくやっているんじゃないかと。そういう自覚を持てるくらいうまくやれてたと思います。

適性に正解はない

これは「適性があった」ということになるんでしょう。40年間も自分では気づかなかったんですけど、生活指導部長としての適性が自分にはあった。「適性」にはそういう面も多分に含まれていると思います。自分では無自覚でも秘めた適性というのを人は持っているものだ。

で、そういう目で過去の自分を振り返ってみると、たしかに生活指導部長に必要な資質のうちのいくつかについて(例えば人間関係調整力とかカウンセリングとか説得力みたいなものとか。強面で叱るのは得意じゃないけど別の叱り方ならうまくできていた)、そういう資質の存在を裏付けるような出来事が過去にいくつかあったことを発見するわけですよね。ああ、自分にはそういう資質がもともとあったんだなって。

でも、そういう適性って普段は表に現れないから自分では気づかないんだけど、たまたま「お前、生活指導部長をやれ」っていう命令があったりして、そういう偶然があったときにはじめて自分の適性を発見したりする。そういうことってけっこうあると思います。人生経験を重ねてきた大人ならば思い当たる節がいくつかありますよね。

だから、その人がどういう適性を持っているかについては正解はないんだと思います。そして、自分ではまったく自覚していない分野に関しての適性が実はあったりする。で、そういうことは自分では気づきようがないので、他人に指摘してもらったり、自分を客観視したりしてはじめてわかったりするわけですね。

ここでやっと「自分ストーリー」の話に戻ります。(本当にまわりくどくてすいません)
前回の投稿で、自分を取り巻いてきた様々な材料を集めて「相関図」を作るっていう話をしましたが、こういう作業をしていく中でいろんな発見が生まれてくるんだと思います。
わたしたち大人は人生経験を積んでくる中で自分の隠れた適性に気づく機会がいつかは訪れたりするものですが、高校生にはそういう機会を待つ時間的余裕はありません。だから隠れていた適性に気づく機会は、こちらが意図をもって提供するしかないと思います。

「自分ストーリー」の取り組みにおいては、後者のような隠れた適性を掘り起こしていくことができる。これがすごくいい点だと思います。自分の隠れた適性に気づき、それを自分の物語に紐づけていくことができれば、物語に厚みが出てきますね。小論文を書く際のよい材料になりそうです。


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この記事を書いた人

1968年生まれ
東京学芸大学大学院修了
函館市私立学校に30年勤務
小論文を中心に指導

コメント

コメント一覧 (2件)

  • […] 前回の投稿では最初にわたし自身の話をしました。40歳を過ぎてやっと自分に隠れた適性があったことに気づいたという話です。自分にはどんな適性があるのか。この答えを出すのは大人でも難しいことです。ましてや人生経験の少ない高校生にはなかなか判断が難しいですよね。それで、自分でもわかりやすいもの使いたくなるんだけど、そういう内容は多くの生徒と「かぶる」ことが予想されるので、自分のオリジナリティやその信ぴょう性を表現するのが難しくなる。こういう状況をどう打開していくか。その方向性を二つ考えました。一つは、「自覚している適性」をそのまま使うという方向性です。これには多くの生徒と内容的にかぶりやすいというリスクがあります。せっかくよい経験をしていても似たようなことを多くの生徒が経験しているので、そこで書かれた適性はありきたりなものとなってしまい、その他大勢の中に埋没してしまうというリスクです。これに対しては「書き方」の指導を徹底することで対処していく。「自覚している適性」をそのまま使うのにはメリットもあって、それは本人が最も書きやすい内容であるということです。自分で実際に経験していて、その経験から強く感じていることですから、書きやすいはずです。文章力に不安があるのならばなおさら「書きやすいことを書く」というのがいちばん安全ですよね。ちゃんとした書き方を指導してそれができれば、その他大勢との差別化は可能になるでしょう。こういう話を前回の投稿でしました。(前回の投稿はこちら) […]

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