小論文エッセイNo.3

小論文エッセイの第3回です。小論文入試って難しすぎませんか? っていうのが今回のテーマです。「小論文の書き方」みたいなことをわれわれ教員はしたり顔で生徒に話したりしますが、それって本当に高校生にできるの? と思うことがけっこうあるんです。その辺のことをお話しようと思います。



目次

小論文の難しさ

 よい小論文を書くにはどうすればいいのか。

 前回までの話を総合すると、生徒自身に「伝えたいこと」「主張したいこと」があればいい、ということになります。

 しかし、話はそんなに単純ではありません。
 これについてもう少し考えていきましょう。
 
 そのためには、いくつか整理しておかなければならないポイントがあります。

 1、そもそも「小論文」とは何を指すのか。

 2、小論文の評価基準は何か。

 「小論文」って言ったら、どんなものをイメージしますか?
 
 これはかなり幅広い意味で解釈することが可能です。

 まずは、文字通り「小」さな「論文」といったような意味合いで、短めで簡単な論理性を持った文章、主に大学生のレポート的な文章などを指してこう言ったりします。

 しかし、一般に「小論文」と言う場合はどうでしょうか。
 いわゆる「受験小論文」をイメージする人がずいぶん多いように思います。

 高校の授業でも「小論文を書く」と言う場合は受験とは無関係ではありません。論理的文章の書き方を学習したので、その方法に従って短めの論文を書いてみようというケースはあるとは思いますが、それにしても心理的にはその先にある「受験」を見つめて書くことになると思います。
 
 何らかのテーマについて自分の考えを述べるといった場合、そのテーマがあらかじめ示されていて、それについて十分に考える時間やデータを集める余裕が与えられ、そのうえで論理的な文章を仕上げなさいと言うのであれば、そんなに難しいことはないかもしれません(もちろん、これすらもうまくできない生徒は多数いるのですが)。

 しかし、「受験小論文」の場合は、これとは事情がずいぶん違います。
 なにがいちばん違うかと言えば、受験当日までお題がわからないという点です。
 もちろん受験する学部によってはその学部に関連したテーマが出題されることも多いでしょうし、そういう感じで出題テーマをある程度予想することは可能だとは思います。
 しかし、それも大学によってずいぶん事情が変わりますし、テーマの方向性が予想できたとしてもどういう切り口で問われるのかというところまでは予想しがたいので、結局は当日までわからないことに変わりはありません。

 受験当日にはじめて知らされる問題(テーマ)について、その場で制限時間内に考え、それを文章化するというのは、普通の高校生にはかなりハードルの高い作業です。
 それがどんなに単純な問いで十分予想されたものであったとしても、そういう状況の中で書くということはかなりの心理的な負荷がかかるはずで、そうした精神状態で受験というミッションをクリアするというのは、私たち大人が考える以上に高校生には難しいことです。
 ましてや予想だにしなかったテーマが出題されたりしたらどうなってしまうでしょう。普通の生徒ならその場で凍りついておわりでだと思います。

「受験小論文」の難しさは、文章を書くという難しさに加えて、その場で(即興で)構成する難しさ、さらにはそれに伴うプレッシャーやストレスにうち勝たねばならない難しさでもあるわけです。

 ですから、ただ「書き方」だけを教えてもダメなんです。

 何のプレッシャーもないところで、あらかじめ与えられたテーマについてうちに帰って書いてくるっていうのであればできるかもしれません(もちろんそれすらできない生徒もたくさんいます。しつこいようですが)。
 
 しかし、それでは十分な練習になりません。
「受験小論文」は、その場で考え、その場で書けなければ意味がないんです。そういうことに対応できるような練習をしていくことがどうしても必要になる。

受験当日に書けなければ意味がないのに

 それなのに、どうしてこのことについて考察している研究が少ないのでしょうか。
 
 野球で例えるならバッティングセンターでの練習だけしかしてない初心者のようなものです。
 もちろんバットの振り方や球のとらえ方などの基本動作はそこで練習できる。でもそれだけでは本番の試合に対応できないのはだれが考えてもわかりそうなことです。生身の人間の投げる生きた球がどういうものか知らない。ましてや試合当日までどの学校のどんなピッチャーがどんな球を投げるのかわからないんです。何のシミュレーションもせずにバッティングセンターの練習だけしかしてない初心者が試合本番でなんらかの結果を残せるとはとうてい思えません。それと同じです。

 それなのに、なぜわれわれは試合本番(受験当日)のイメージまでを含めた事前練習のメニューを組んであげないのでしょうか。
 そうした指導をしている先生ももしかしたらいらっしゃるのかもしれませんが、私はそうした先生にお目にかかったことがありません。受験当日の対策についてくわしいアドバイスをしているような参考書にも出会ったことがありません。

 どうしてこんなことになるのでしょうか。

 それは「受験小論文」の「評価基準」ないしは「合否結果」に関係するのではないかと考えています。
 これが二つ目のポイントです。

 「受験小論文」の特殊性を鑑みれば、実際の試合(受験内容)のデータを毎年きちんと集め、大学ごとの傾向を把握し、次年度以降の指導に参考となるように整理しておくようなことをした方がよいように思う。
 とくにいろんな大学の小論文指導に関わってきた経験があるので、その指導内容や指導経過を記録し、そして文章の上達度なんかもわかるようにファイルしておけばきっと何か役に立つと思う。データの蓄積と分析。こうしたことをきちんとするべきなんだろうと。
 そんなふうには思うわけです。

 しかし実際はそういうことをしてこなかった。

 なぜしてこなかったのか。
 反省がてらちょっと考えてみたんです。
 
 その答えを一口に言えば、
 面倒だから。

 なぜ面倒かと言えば、
 そうすることにあまり実質的な意味を感じないから。

 別にここで開き直りたいわけじゃないですよ(少なからず自戒を込めて書いていますから)。
 これは過去の経験を振り返って自問自答したときの正直な感想なんです。
 
 小論文を指導した生徒を受験に送り出してしまったら、その時点で指導終了。実際にどんな問題が出題されたかについてはあとで報告を受け、合否結果も後で知らされます。
 でも、どんな問題が出題されようが、その結果が合格だろうが不合格だろうが、受験に送り出した後は私がその子に対してできることはもう何もない訳です。

 いやいや、データを蓄積するとかそれを分析するとかやれることはあるだろう、と言われそうです。
 
 でも、実際にそういうことをしたためしはない。毎回こうなんですよね。
 
 せっかく長い時間をかけて指導してきたんです。その生徒の指導データを蓄積して次に生かそうみたいなことを考えてもよさそうなものなのに。
 でもなぜかそういう建設的な発想にはならなかった。
 どうしてこうなっちゃうんでしょう。
 反省がてら、さらに考えてみたんです。

小論文入試というブラックボックス

 そうすると、こんな背景が見えてきたんです。

  1. 受験当日に生徒がどんな文章を書いたかどうかそのすべてを(完全な形で)見ることができない。だから、私の指導が答案に十分反映されたかどうかを確認する手立てがない。
  2. しかも、かりに私の指導通りに書けたとしても、それを大学側がきちんと評価してくれるかどうかは実際のところ分からない。実際の評価基準は入試査定会議に出席でもしないと分からないものだし、それが大学によってあるいは学部学科によって、さらには年度によって違ってきたりする。少なくとも高校現場の人間は大学側の小論文入試査定に対してそういう実感を持ち、少なからぬ不信感さえ抱いていたりする。
  3. さらに、その小論文が「よい小論文」だったかどうかは、結局は合否判定で判断されてしまうという構造になってしまっている。もちろん合否判定には小論文以外の要素も多数含まれるので小論は高得点だったが面接や書類が悪くて不合格ということも当然ありる。しかしわれわれはその内訳をしることができない(ことが多い)ので、不合格ならば小論文も良くなかったんだろうと(自動的に)判断してしまう。良い小論文は書けたけど不合格でした、というのは(仮にそれが事実だったとしても)生徒にとっては慰めにしか聞こえませんし、不合格ならば小論文の「でき」がどうであったとしても、もう関係ありませんから。すると、よい小論文が書けたかどうかの検証っていうのは実際のところできないし、仮にできたとしてもあまり重要視されなかったりするわけです。

 私から見てよい小論文が書けるだろうと思っていた生徒が不合格だったり、その逆だったりということをたくさん経験していく中で、いろんな難しさや虚しさを感じてきました。
 
 本番で力を発揮することが大切なのにもかかわらず本番自体はベールに包まれ、その文章の評価は入試査定というブラックボックスの中で判定されてその実態がよくわからない。そのうえ合否判定と小論文の「でき」は同一視されてしまい、結果が合格であろうが不合格であろうが小論文の「でき」は生徒にも先生にも顧みられないまま終了してしまう。

 こうしたことを毎年くりかえしていると、指導している側は虚しくなっちゃうんですよね。私自身、生徒を受験に送り出した時点で「指導の終わり」を感じてしまっていたのにはこうした背景があって、それが無力感のような感覚を生み出してきた、そういうことが次第にわかってきたんです。

これまでの話をまとめます。

「受験小論文」の難しさの一つ目は、入試当日にはじめてお題が示され、その場で制限時間内に文章を書くという点にあります。
 にもかかわらずこうした試験に対応するための練習方法が確立されていないというのが難しさの二つ目。
 それに加えて当日の入試の実態はベールに包まれ(書いた小論文の全体像を見ることはできない)、入試の採点基準や合否判定はブラックボックスとなっている。
 そのため、自分の指導がきちんと生きた答案が書けたのか、それが高評価を得たのか、さらにはそれが合否につながっていたのかという一連の流れがいっさいわからない。
 そうした構造全体が「受験小論文」の難しさであり、これは他教科の入試などに比べても極めて特殊と言わざるを得ません。

 私が「受験小論文」について感じていることは以上のことです。
 しかし、だから「小論文」という入試形態はダメだとか、この形態を何とかした方がいいとか、そういうことを言いたいのではありません。
「受験小論文」というのはこういうもので、このような難しさがあるということを、指導する先生は理解しておくことが大事だと思うのです。
 なぜなら、多くの先生がこうした実態ををあまり理解していないように思うからです。
 
 こういうことがわかっていたら、書いてきた小論文の中身だけでなく、受験当日に力を発揮できるかどうかに力点を置く指導をするはずです。

 受験当日に自分の力で問題を解くという難しさがわかっている先生ならば、その生徒の力量と持っている武器とを計算し、その生徒が最大限に力を発揮できる作戦をいっしょに考えてあげるはずです。

 もしも指導する側にこうしたことが見えているなら、参考書の受け売りのような指導で済ませられるはずはありません。

 小論文指導には、生徒一人ひとりに合ったアプローチが必要だと思います。

 生徒一人ひとり、考えていることも伝えたい内容もみんな違います。
 理解度も器用さも違います。
 
 だから、万人に通用するような絶対的な指導法なんかあるはずありません。

 小論文入試という厄介な戦場に送り出さねばならないわれわれ教員は、そこで少しでも力を発揮できるように、生徒一人ひとりに見合った指導をしていく必要があると思います。

 でも、それが難しいんです!

 だから、みんなで知恵を出し合いながら考えていかねばならない。
 そのためには今まで書いてきたようなことを共通理解としてみなが持ち合わせていなければいけないんじゃないかな、とこう思うわけです。

この記事が気に入ったら
いいねしてね!

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人

1968年生まれ
東京学芸大学大学院修了
函館市私立学校に30年勤務
小論文を中心に指導

コメント

コメント一覧 (1件)

  • […]  生徒に指導するのもつまりはこれと同じことです。 ただし、われわれ教師と違って生徒には「土台」がない。 そりゃあそうです。 高校生は忙しいんですから。 膨大な量の勉強をこなさなきゃいけないし、部活動の時間も確保したい。その上習い事やら塾やらで時間はないんです。時々はともだちとカラオケにも行きたいしね。 いつも時間に追われています。  そうした中で、本を読んだり、新聞やテレビなんかで情報を収集したりして、自分の将来像を思い描き、そのために必要なスキルを磨いたりしながら、自分の考えをしっかりと持つ。 そんなことできる高校生って、そうそういないですよね。 もちろん、学校の勉強とか部活とかもちゃんと手を抜かずにっていうんであれば、それはものすごい能力ですからね。  ふつうの子には、なかなかできないかな。 だから、土台みたいなものがすでに出来上がっている生徒なんてそんなにいるわけがない。 じゃあ、どうするかっていうと、 土台がないのなら、土台を作っちゃおうと、こういうわけです。  だって、作るしかないじゃないですか。 土台がなければ私たち大人だって文章を書くことはできないんですから。 ましてや、高校生ならなおさら土台は必要です。 なんの拠り所もない状態で、文章なんかかけるはずがない。  だから、まずは土台を作ります。 でも、そんなことができるのだろうか。 「土台」っていうのは思考の基礎になるようなものですからね。 そう簡単に作れそうには思えません。  しかし、無作為に飛んでくる問題(テーマ)に対して、その都度無難に無理なく答えていくような芸当の方が余程難しいことだと思います。 これについては教員が小論文を書くという想定のところでも話しましたし、以前の投稿「小論文の難しさ」のところでも説明しました。(小論文エッセイNo.3はこちら) もちろん、ほとんどの生徒はそんなことはできません。  それなのに、実際の小論練習って、けっこう無茶なことやってますよね。 環境問題のポイントはこうだとか、経済問題にはこう対処しろとか、AI関連はここに注目しろとか。 生徒もそういうことは大事なんだろうと思っちゃうから、一生懸命詰め込もうとするんだけどね。 そもそも土台がないから、よく理解できないんですよ。  もちろんこういう指導も大事だし、最低限の基礎知識はないと困りますよ。 でも、実際はどうなんでしょう。 いくらそういう知識を詰め込んでも、生徒がちゃんとそれを使いこなせるのかどうか。 その生徒のキャパや対応力を見きわめた上でないと、かえって変なことになっちゃいます。 で、実際変なことになっちゃってますよね。 受験の直前にこうした指導をダーッとやって、事前練習をしたような感じに生徒も先生もなってね。それで受験に行ってらっしゃいですから。まともなこと書けているとは到底思えない。  ※ そんな感じでも合格できちゃう大学と、それじゃ到底太刀打ちできない大学とがある訳ですよ。それが前回の話です。(小論文エッセイNo.5はこちら) こういう実態を何とかしたい。 生徒自身が納得できるような小論文を書かせてあげたい。 そのためには、土台づくりから始める必要があると思うのです。 […]

コメントする

目次