「自分のことを書く」とは?
ところで、「小論文は自分のことを書くもの」と言いますけど、「自分のことを書く」って難しいですよね。
だいたい、「自分のこと」って何を指してるんですかね。
どういう自分を書けばいいって言うんでしょう。
この辺のことって意外と曖昧になっていて、みんな何となく分かったような顔をしているけど、だれもはっきりとわかってないんじゃないかなっていう感じがします。
みんなわかってないくせにわかった風な顔してすましていますよね。で、この大事なポイントを素通りしてしまって、先へ先へと急いでいる。だから一生懸命参考書を読んでがんばっているのにいつまでたってもなんだかよくわからない。肝心なところがつかめていない。
本当は「自分のこと」って何を指しているのかちゃんと考えないといけません。
だって、ただ「自分のこと」って言われてもいろんな「自分のこと」があるんだからね。どの自分のことを言っているものやらよくわからないんです。
これはけっこう謎なんですね。
「自分のこと」っていうのを、「自分がふだんから大切に感じていること」とか「自分の信念」とかいう言葉に置き換えてみましょうか。するとちょっとだけわかったような気がしてくる。
「諦めないで頑張ることが大事だ!」
「努力は裏切らない!」
これがわたしの信念。普段から強く感じていること。正しいと信じていること。
「自分の信念を言ってみて」なんて質問を生徒にするとこんな答えが返ってきてしまう。
で、短絡的にこれが「自分のこと」「自分の考え」と思ってしまう。
そうか小論文ではこれを書けばいいのか!
こんなふうに誤解してしまうんですね。
自分の中のどこかに絶対的な「自分考え」みたいなものが根づいているという発想ですよね。
そういう「自分の考え」っていうのは自分の中央にどんと座っていて、自分は常にその考えもとに判断し行動している。「自分はいつもこういうふうに考えてきた」とか「こういうことが大事だと考えている」とか、そういう自分の根幹をなしている考えというのがあって、これは誰しもが持っていると思うんですけど、これを唯一無二の「自分のこと」「自分の考え」だと誤解してしまうんですね。
だって高校生には「自分の分かりやすい部分」しか見えていないから。
自分の中にあるその他の要素に目を向けることができないので、それを唯一無二の「自分」と決めつけてしまう。これも泥沼状態の一種です。
でも、そんなわけないじゃない。
人間は時と場合によっていろんな自分になるものだし、その状況に合わせたいろんな判断をそのときどきでするものですからね。
「自分の考え」っていうのも、状況次第でいくつかのバリエーションがあるわけですよ。
そんなの当たり前のことです。
なのに、それを一律にして「自分の考えを書け」って言っちゃうから、混乱する。
そんなふうに言われたら、ふだんから感じている「わかりやすい自分」の中の「ど真ん中」に鎮座している「自分の考え」が、「自分のこと」だと思いますよね。
「諦めないで頑張ることが大事だ!」
「努力は裏切らない!」
部活の取り組み方とかいうテーマならば「諦めない心が大切!」って主張してもいいけど、二酸化炭素を削減しましょうっていう話題だったら「努力が大切だ」は済まされない。
小論文で書く「自分のこと」っていうのは、小論文を書くという目的にそって作り上げていく「自分のこと」です。
さっきも書いたように、自分っていうのは、時と場合によって「いろんな自分」を持っているもので、「わかりやすい自分」ももちろん自分だけど、そうじゃない自分もたくさんある。
高校生はすぐに「わかりやすい自分」に飛びついちゃってそこから離れられなくなってしまうんだけど、これじゃ小論文は書けません。
そんな自分を無邪気に書いたって小論文にはなりませんから。
小論文を書くっていうことは、入学試験を受ける状況があるということです。
ということは、志望する学校の職種だったり、学問だったりがはっきりしている訳ですよね。
であるならば、そういう方向性における「自分のこと」「自分の考え」を書く必要がある。
入学試験という特殊な状況を想定した上で、この場合における表現するべき「自分のこと」を書くわけです。
看護学部の入試においては「努力の大切さ」を連呼してもあまり意味がないんです。自分は今「医療」の方向に進路を向けているわけですから、その方向性に沿った形で「自分のこと」を考えていく必要がある。
だから、「努力は大切だ」と考えている自然体の自分がいることは確かなことかもしれないけれども、今表現すべき自分というのはそれじゃない。小論文を書くという目的に沿った形で、つまり「医療関係の進路を志望している自分」という基本ラインに沿った形で、そうした方向性における「自分のこと」「自分の考え」を作り上げていく。そういうことが求められてくると思います。
「小論文は自分のことを書くものだ」という考え方は確かに正しい。
でも、ここで言うところの「自分のこと」をちゃんと理解していないと、自分らしい小論文を書くことはできない。
で、多くの人がこの「自分のこと」の内容をちゃんと理解していない感じがします。このことの大切さがよくわかっていない感じですね。だからいくら参考書を読んでも一向に小論文が上達しない。書いても書いてもありきたりな文章しか書けない。
「自分のこと」というのが何をさしているのかがわかっていないからですよね。もとになる土台の部分がしっかりしていないわけです。砂上の土台みたいになっちゃってるんですね。なのにそのことに気づいていない。これじゃいくら家を建ててもうまくいきません。
とにかく、大事なのは土台なんです。
初級編⑩へ

コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 「血が流れている」ってすごくないですか。例えば、父親が新聞記者で普段から父の仕事ぶりを見てきてそれで自分も新聞記者になりたいっていうのは志望理由としてはこれ以上ない説得力がありますよね。この子の場合は直接的な影響は受けてはいないけれども、お母さんの話を通してお祖母さんからの「血の流れ」を感じたわけです。「自分にも看護師の血が流れている」っていう感じですよね。もちろんそのときにすごく強く意識したわけじゃないと思いますよ。「看護師はわたしの天職だ!」とか「私には看護師としての使命があったのだ!」とか。そんな天啓みたいに何かが降りてきたわけではないでしょう。でも、その子の中に自然とそういう考えが浮かんできた。で、自分が看護師になるということをすっと受け入れることになった。看護師になるのがあたかも自然な流れであるかのように思えたのかもしれません。「おばあさんが看護師だから自分も看護師になる」ってそのまま書いちゃったら論理的に飛躍しちゃうけど、生徒自身の中では自分が看護師になるということの理由として成り立っているんですね。これは「自分の中に眠っていた適性」になり得ると思います。だからこのことについて更にいろいろと話を聞いていけばいいでしょう。そういうやり取りを通して、それまでぼんやりと感じていたことを意識化して言葉で表現できる段階にまで持っていけたらいいですね。看護師としての適性といったら何でしょうかね。実際の看護師の仕事にはいろんな側面があって高校生にはわかりようもないことも多いのでそういうのはここでは考えないでいきましょう。看護師の適性と言えばやはり「困っている人のために尽くす」とか「人の気持ちに寄り添う」とか「自己犠牲」とかそういう感じですかね。そういう血(適性)があなたにも流れているって思うことある?やっぱりバレー部でのことかな。バレーボールは自分一人でできることじゃないから、困っている部員がいたら相談に乗ったり、いっしょに練習してその壁を乗り越えるように努力したり、誰かのために自分を犠牲にするなんてことはいつものことだったな。自分の中に眠っていた看護師としての適性は、実はバレーボール部のキャプテンとしての活動の中にもしっかりと表れていたわけです。そういうことに気づき始めるようになる。最初の頃、この生徒に「部活動から得たものは何か」という質問をしたとき、返ってきたた答えは「諦めない気持ち」とか「努力し続けることの大切さ」とかそんな感じでした。これでも悪くはないんだけど、こういう感覚だけだとせっかくのバレー部の経験がそこで閉じちゃっていてその先に続いていく感じがしない。バレー部の経験をどう将来に生かしたいかというコンセプトが見えない。でも、今同じ質問をしたらどんな答えが返ってくるでしょうか。バレーボール部での様々な活動が、将来看護師になるための資質を育ててくれていた。そんなふうにとらえられるようになるかもしれません。そうすると、部活動と看護師とがその生徒の中で自然な形で紐づけられていくので、文章化するときの内容もおのずと決まっていきますね。初級編⑨へ […]