E-roomへようこそ。このブログでは、学校現場における小論文指導の現実について、学校の先生を対象にゆるーく語っていきます。バックナンバーと合わせてお楽しみください。
「自分らしい文章」を書くためにはしっかりとした「土台」が必要である。ということで、今回は土台「組み立て編」の第4回になります。前回までは「わかりやすい自分」だけでなく、「隠れていた自分」を発見していこうというお話でした。今回は「自分のこと」とは何を指すのかについて一度整理しておきたいと思います。
新しい切り口で自分を見つめる
ちょっとだけ前回までの復習。
「自分の意見」を言うためには、「自分」がなきゃいけない。
それで、「自分」ってどういう人間なんだろうって考えてみる。
すると、とりあえずひとつの形は見えてくる。
過去の自分を振り返ってみて「自分ってこういう人間だよなあ」と思える自分ですね。これは難しく考えなくても自分でちゃんと「自覚している自分」なのだから、自分の中のわかりやすい部分ということになります。たとえば「自分は努力型の人間だ」とかそんな感じ。自分でよくわかっている自分ですね。
こういう自分をベースにして文章を書くとどうなるか。
自分でも「わかりやすい自分」を土台にしているので、書きやすいことは間違いない。
でも、「わかりやすい自分」っていうのはだいたいが平凡ですよね。いろんな人と内容的に「被っている」ことが多い。
だからこういう自分をベースにして文章を書いてもありきたりなものにしかならない。みんなと似たようなことしか言えない。これでは「自分らしさ」を表現するのは難しいですね。
このままだと、高校時代にとてもいい経験をしてきて他の人とは違う個性的な材料をたくさん持っていたとしても、それをうまく文章化することができないんですね。本当にもったいないことだと思います。
「わかりやすい自分」のところにとどまっていたら、「自分らしい」文章を書くことは難しい。
だから「視点を変える」必要が出てくる。
今は「わかりやすい自分」しか見えていません。
そこで、「違う自分」が見えてくるように「自分」を解釈する「切り口」をいろいろ変えていくわけですね。
それで前回は「無自覚の適性」を探すという話をしました。
いろいろと視点を変えることで、今まで自覚していなかった「隠れた自分」を掘り起こしていきます。
これは、今までなかったものを新たに生み出すというのではありません。「たしかに存在はしていたけれどもあまり自覚してこなかった部分」というのを誰しもが持っていて、そこにスポット当ててみるということです。
でも、「隠れた自分」っていったいどこにあるものやら。無暗に探してもそう見つかるものではありません。
探し方になんらかの工夫が必要そうです。
見つけるポイントは「切り口」でしょうね。
何らかの切り口を設定してそこから眺めたときに、「わかりやすい自分」以外のものがよく見えるようになってくる。だから「切り口」が大事。
じゃあ、どこを切り口にすればいいかっていうと、それが難しいんですよね。
決まりきった切り口というものはないし、人っていうものはそれぞれ違うものですからね。
だから、「作戦会議」をしましょうということなんです。
生徒が書いてきた文章を見ながらいろんな話をしていく。
なんとかして生徒の文章から何らかのヒントを見つけたい。
ヒントらしきものを発見したら、そこから切り崩してみる。それはいい切り口になるかもしれないし、無駄足で終わるかもしれない。
こういうのは話してみないとわからないものです。
どうすればいい切り口が見つかるか。
こういうことについて一般的に言えることってあまりないんですよね。どうすればいいかはやってみないとわからない。だから、話す材料をできるだけたくさん用意して、いろんな角度からいろんな話をしてみる。そういう対話の中でいい切り口を探していく。それしかないんです。
「こうすれば切り口がみつかる!」というような方法論はないし、「何がいい切り口なのか」という判断基準も人によって違ってきます。
だからこれらに関してはっきりした答えは出せません。この子の場合はこうだったという具体的事例をあげることはできますが、それらを集めて一般化して法則めいたものを導くというのは難しいでしょうね。かりにそういうものがあってもあまり意味がないと思いますし。
ただ、はっきりしていることはあります。それは次のことです。
先生が、しっかりとした意図をもって、生徒と対話すること。
生徒自身は「わかりやすい自分」の枠組みから抜け出せないでいます。
そこで凝り固まってしまっているので平凡な文章しか書くことができない。そういう泥沼状態が続いている。
そこから引きずり出して、次のステージに進めるのが先生の役割りなんです。
うまく引っ張り出すことができれば、今までとは違った新しい景色を見せてあげられるでしょう。
先生がもつべき「意図」というのは、「切り口探し」であるし、その子の「隠れた特性を探す」ということでもあるし、そうした自分を発見することで小論文を書くことのできる「土台を築く」ということでもあります。
こうした「意図」をもって生徒といろんな話をする。「わかりやすい自分」の泥沼から抜け出す脱出口はどこにあるのか。そんなことを考えながら話をするわけです。
ただ、結果的にいい切り口が見つからないということだってもちろんあります。
たくさん話をして切り口をさんざん探し回ったけれども見つけられず、結局最初の段階に戻って文章の書きかたレベルの修正だけで終わってしまう。そんなことだって多々あります。
でも、それは仕方がないことだと思います。
大事なのは先生側がどういうスタンスでいるかということではないでしょうか。
この生徒をゴールまで導けるかどうかはわからないけど、なんとかして切り口を見つけて次のステージまで引き上げようという姿勢が先生側にあるかどうか。
先生がこういう姿勢を持っているのならば、仮に生徒との対話が空振りに終わったとしても、何かは残ります。
先生があるしっかりとした意図をもって話をしたのならば、その時間は生徒にとって何かの形で何らかの収穫になっているはずです。わたしはそう思って、いつも自分をなぐさめています。
「自分のことを書く」とは?
ところで、「小論文は自分のことを書くもの」と言いますけど、「自分のことを書く」って難しいですよね。
(次ページへ続く)


コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 「血が流れている」ってすごくないですか。例えば、父親が新聞記者で普段から父の仕事ぶりを見てきてそれで自分も新聞記者になりたいっていうのは志望理由としてはこれ以上ない説得力がありますよね。この子の場合は直接的な影響は受けてはいないけれども、お母さんの話を通してお祖母さんからの「血の流れ」を感じたわけです。「自分にも看護師の血が流れている」っていう感じですよね。もちろんそのときにすごく強く意識したわけじゃないと思いますよ。「看護師はわたしの天職だ!」とか「私には看護師としての使命があったのだ!」とか。そんな天啓みたいに何かが降りてきたわけではないでしょう。でも、その子の中に自然とそういう考えが浮かんできた。で、自分が看護師になるということをすっと受け入れることになった。看護師になるのがあたかも自然な流れであるかのように思えたのかもしれません。「おばあさんが看護師だから自分も看護師になる」ってそのまま書いちゃったら論理的に飛躍しちゃうけど、生徒自身の中では自分が看護師になるということの理由として成り立っているんですね。これは「自分の中に眠っていた適性」になり得ると思います。だからこのことについて更にいろいろと話を聞いていけばいいでしょう。そういうやり取りを通して、それまでぼんやりと感じていたことを意識化して言葉で表現できる段階にまで持っていけたらいいですね。看護師としての適性といったら何でしょうかね。実際の看護師の仕事にはいろんな側面があって高校生にはわかりようもないことも多いのでそういうのはここでは考えないでいきましょう。看護師の適性と言えばやはり「困っている人のために尽くす」とか「人の気持ちに寄り添う」とか「自己犠牲」とかそういう感じですかね。そういう血(適性)があなたにも流れているって思うことある?やっぱりバレー部でのことかな。バレーボールは自分一人でできることじゃないから、困っている部員がいたら相談に乗ったり、いっしょに練習してその壁を乗り越えるように努力したり、誰かのために自分を犠牲にするなんてことはいつものことだったな。自分の中に眠っていた看護師としての適性は、実はバレーボール部のキャプテンとしての活動の中にもしっかりと表れていたわけです。そういうことに気づき始めるようになる。最初の頃、この生徒に「部活動から得たものは何か」という質問をしたとき、返ってきたた答えは「諦めない気持ち」とか「努力し続けることの大切さ」とかそんな感じでした。これでも悪くはないんだけど、こういう感覚だけだとせっかくのバレー部の経験がそこで閉じちゃっていてその先に続いていく感じがしない。バレー部の経験をどう将来に生かしたいかというコンセプトが見えない。でも、今同じ質問をしたらどんな答えが返ってくるでしょうか。バレーボール部での様々な活動が、将来看護師になるための資質を育ててくれていた。そんなふうにとらえられるようになるかもしれません。そうすると、部活動と看護師とがその生徒の中で自然な形で紐づけられていくので、文章化するときの内容もおのずと決まっていきますね。初級編⑨へ […]