日本語の構造から見えてくること
述語は文の最後に置かれる
日本語は、述語が文の最後に配置される構造になっています。
ですから、単文であっても、修飾語が多ければ、述語はずいぶん後の方に回されます。これに重文や複文が加われば、大事な内容はさらに後ろの方へ追いやられてしまいます。
例えば、英語なら「I cant go. Because‥」というところを、日本語では「妻には一人だけ妹がいて、その妹が最近‥」などと一体何の話だろうというようなことを話し始め、最後まで聞いてみないと、結局goなのか、 dont goなのかわからないという言い回しになることがよくあります。
こうした表現はとても回りくどいように感じますが、判断に迷っているときや言いたいことがはっきりしていないときなどはとても便利です。
話を長引かせて時間稼ぎをすることができるからです。
「くっつき文」はすぐにできる
このように、日本語は文の構造だけでなく、重文や複文によって話を長引かせることができます。
しかも、〈中止法〉や〈接続助詞〉を使えば、文と文をくっつけること自体ははとても簡単にできます。
「〇〇と考えておりますが、‥‥」
「とても喜ばしい結果となり、‥‥」
こうするだけでいくらでも文をくっつけることができ、話を長引かせることができます。
話しながら考える習性
このように見てくると、日本語というのは、すぐに結論を言わないというもどかしさがある反面、話しながら考えるには便利な言葉と言えるかもしれません。
結論がはっきりと決まっていない状態でも、とりあえず話し始めることが可能だからです。
goなのか、 dont goなのか、自分の意思表明は文の最後まで持ち越すことができ、さらに「くっつき文」を使えばいくらでも先延ばしが可能です。のらりくらりと話しながら相手の反応を探り、その間に自分の考えを整理していけばいいわけです。
こうしたことは、先に「I dont go」と言って自身の態度を表明しなければならない英語圏の人にとっては考えられないことでしょう。彼らの言語は、結論に向かって論理的に思考するのに向いていますが、日本語による日常会話はその場その場での継ぎ足しのようなものですから、決して論理的であるとは言えません。
そのことの是非はともかくとして、少なくとも論理的文章を書くときには、「ふだんの言葉」を使うべきではないでしょう。「ふだんの言葉」を使ってしまうと、日常における非論理性がすぐに顔を出してしまいます。
ふだんの言い回しを文章に持ち込まない
日本語はもともと論理的文章を書くには不向きな言語です。それは江戸時代の政治や学問の言葉が漢文であったことからも伺えます。
明治以降、先人たちの大変な努力の末に「口語体」という新しい表現が形成されていきましたが、この言葉は話し言葉をベースに形成されていますので、基本的に客観的表現が得意ではありません。
話し言葉というのは和文脈と近い相性にあるので、感性や情念を表現するのは得意ですが、多くの人を説得するのにはあまり向いていない言葉なのです。
ですから、話し言葉をベースとした「口語体」が政治の言葉や学問の言葉としての客観性を保持していくためには、常に気を引き締めておく必要がありました。そうしなければ話し言葉の根底に流れている非論理性がすぐに顔を出してしまうからです。
「△△には特に注目していて、これからの時代に必要なのは‥」
「‥と心配していたところですが、最近の調査によりますと‥」
こうした曖昧な言い方で結論を先送りにする手法は、最近では日常のあらゆる場面で使われています。
その結果、こうした言い回しを文章表現にも持ち込み、それがスタンダードな表現だと思い込んでしまう風潮があるように思います。
日常の会話の中に曖昧な表現を潜り込ませてしまうのは、日本語話者である私たちにとっては仕方がないことかもしれません。しかし、日本語がそうした非論理的要素を抱えている言語であるからこそ、文章を書くときには気を引き締めなければなりません。
文章を書くとき、「ふだんの言葉」モードから「書く言葉」モードに切り替える必要があるのはそのためです。

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