高校生の文章を読むと、「ふだんの言葉」で書くことの問題がわかりやすく見えてきます。
誰に向けて書いているか
「誰に向けて書くか」という意識は、文章を書く上で非常に大切です。
この意識が乏しいと、文章は客観性を失っていきます。
高校生は誰に向けて文章を書いているかというと、担当の教師に向けて文章を書くことがほとんどだと思います。教師でなければ家族かクラスメイトくらいが「読み手」として想定できる範囲でしょう。
これらは「自分のことをよく知っている人たち」ですから、書き足りないことがあっても、話が飛んでしまっても、読み手はその穴をしっかりと補填しながら読んでくれます。
しかし、大学の入学書類や卒業論文などの社会的な文章は、「自分のことを知らない、不特定多数の人々」に向けて書かねばなりません。言葉だけでしっかりと説明し切ることが要求されます。
高校生に求められるのは、今までとは違うこうした「読み手」にきちんと対応することです。
今までは「私の思考回路」を知っている人が「読み手」だったので、こちらの説明不足も読み手がカバーしてくれました。そうなると、文章を書くときに、書き手が客観性を意識する必要も感じなくなります。
こういうマインドのまま志望理由書を書いたとしても、彼の熱意や思いは「知らない人」には届きません。
「ふだんの思考」が文章に表れる
「もっとくわしく−4」でも書きましたが、日本語という言語は、論理的な説明がしやすい構造にはなっていません。ですから、普段から論理的に考えるということに慣れているとは言い難い。
私たちが慣れているのは、話しながら考え、ゴールを探して徘徊するような思考です。言いたいことが決まっていなくても、とりあえず話をスタートすることができてしまいます。
最初に結論ありきでそこから展開を組み立てていく論理的思考とは真逆と言ってもいいかもしれません。
高校生の場合、そうした「ふだんの思考」がそのまま文章に反映されやすくなります。
友達とおしゃべりをするかのように話題がスライドし、言うことがなくなっても別の話を無理やりくっつけ、おそらくは書きながら思い出したようなことが突然付け加えられたりします。
しかし、彼らは小中高と「ふだん通りに」「自由に」「自分らしく」書いていいと教えられてきたわけですから、こういう一貫性のない文章が出来上がったとしても何の不思議はありません。
このような作文教育で育つと「ふだんの言葉」で書くのが当たり前になりますから、客観的表現や論理的思考が身につかないのも仕方がないと思います。
それでも「ふだんの言葉」で書き続ける人たち
「ふだんの言葉」で文章を書いてしまうのは、何も高校生に限ったことではありません。
書くのが苦手だという人のほとんどは、「書く言葉」に切り替えるということを意識すらしていません。
大学教授からレポートを突き返されたり、社内プレゼンを上司にダメ出しされたりしている人のほとんどは、「ふだんの言葉」のまま文章を書いているのではないかと思います。

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