小論文エッセイNo.2

小論文エッセイの第2回です。毎年毎年小論文を指導している先生方、ほんとうにご苦労さまです。小論指導の難しさや虚しさなどについて本音のところを話していきたいと思っています。

 



目次

虚しい小論指導とおさらばしたいのだが

 生徒の書いた小論文を読んでいると何だか虚しくなってくることが時々あります。
 この「指導」は果たして何らかの意味があるのだろうか。このまま小論の練習を続けて何か良い効果があるのだろうか。
 こんな思いがふと湧き上がってきます。
 と、こんなことを言うと、それほど生徒の分かりが悪いのかなんて思われちゃいますね。
 
 でも、私の感じる虚しさっていうのはもっと別のところにあるんです。
 それは、書きたくもないことを書かせていることの虚しさと言うんですかね。
 生徒にしてみれば思ってもいないことをさも思っているかのように書かねばならない虚しさということになるでしょうか。
 
 私が添削してきた小論文の多くがこうした虚しい文章であるということに気づいたとき、「小論文」という科目をもう一度根本から見直さねばならないのではないかと思うようになりました。

 そもそもわれわれはなぜ文章を書くのかというと、「伝えたい何か」があるからです。
 それを伝えるために論文を書いたり、小説を書いたり、詩を書いたりします。
 
 逆に言うと、伝えたいことがない人は、何も書いたりしません。
 伝えたいことがないのに演壇に立ってもまともなスピーチにならないのも同じことです。私たちはいろんな場面でこうした虚しいスピーチを聞かされてきましたから、こういう理屈はよくわかりますよね。
 遠足の作文もそうです。小学校のときなんかによく書かされました。でも、たいして楽しいことも変わったことも起こらなかった遠足の作文を書く時ほど苦痛なものはありません。書くことがないんですから当たり前です。
 無理やり書かされる読書感想文にもこうした原理が働いてしまいます。
 だから、そういう感想文を添削するのもまた虚しいわけです。
(もちろん無理やりにでも読書感想文を書かせることの意義は別のところにはあると思っていますが)。
 
 生徒の書く小論文のレベルが低いと感じるとき、だいたいはこれと同じようなことが起きていると思います。
 たとえば小論文の問題では「地球温暖化についてあなたの考えを述べよ」なんていうお題がよく出されますよね。
 で、さあ書いてみましょうって感じで書き始めるんだけど、本人はこれっぽっちも環境問題に関心がないもんだから、まったく筆がすすまない。もちろん知識もないし、ましてや伝えたい意見なんてあるはずがない。だから何を書いていいものやらさっぱりわからないんでしょうね。
 それでもそれらしいことを書かなければ大学に入れないと思うから、それなりにがんばって情報収集したり小論の書き方参考書なんかを読んで勉強したりするわけです。
 それで、しばらくすると何らかの文章を書いて私のところに持ってくることになる。
 もちろん文章としては不合格ですよ。
 だから直さなきゃいけないところはたくさんあるんだけど、そんな感じで書いた文章だからどこから手を付けたらいいかわからないくらいひどい。仕方がないからとりあえず最低限のことだけ指摘して書き直させるんだけど、本人はどこが悪いのかちゃんと理解できていないから、今度はもっと不可思議なものを書いてもってきたりする。
 これをやらなきゃ大学に入れないというモチベーションだけはたっぷりありますからね。何だかがんばって書いてくるんです。このがんばりがあと1年早ければねえと思いますよ。ほんと。
 
 そんな感じだから、何度書き直したってやっぱりだめですよね。
 小論文のテーマ(環境問題など)にはまるで関心がない状態であることには変わりはありませんから。文章のクオリティが上がるわけはありません。
 それでも私たちは生徒の進路のために放課後に時間を取ってこうした虚しいやりとりを続けている。

伝えたいことがなければ文章は書けない

 こうしたことはすべて生徒に「伝えたい何か」が欠如していることからくる問題だと思うのです。
 
 小論文の指導に関してよく生徒の「文章力の低下」みたいなことが言われたりします。
 主語述語の関係がなってないとか、テニヲハがおかしいだとか、説明する順番を間違えてるとか。
  
  もちろんそうした側面もないとは言いません。

 しかし、いちばん大きな問題は「伝えたいことがないこと」「中身がないこと」これにつきるのではないかと思うんですよね。

 もしも生徒に「言いたいこと」があるのならば、「伝え方」を教えることにそんなに苦労はしないものです。
 どうすれば自分の「言いたいこと」がよりよく伝えられるのだろうと考えるようになりますからね。そういう自発性があれば、こっちの指導もちゃんと理解できるようになる。段落構成なり、一貫性なり、論理性なり、具体例やら比較やら。
 そういった手法なんかがなぜ効果的なのかということが実感としてわかってくる。
 もちろん、そういう技術的なことがわかっても、それををうまく使いこなせるかどうかは別問題ですけどね。それでも理屈がちゃんと理解できたというだけでも全然違いますよ。

 逆に、言いたいことがないのに「伝え方(小論の書き方)」だけマスターしようと思っても決してうまくいきませんよね。そういうことは私たち教員は経験的によく知ってますから。
 だってそうでしょう。野球がうまくなりたいと思うから、バットの振り方の理屈がわかってくるし、その先にヒットやホームランが見えるようになるんです。そういう思いがないのにバッティングフォームだけ教えたってできるようになるわけがない。

 それなのに生徒の皆さんは小論文の「書き方」ばかり知りたがります。
 なにか小論文を書くためのフォーマットみたいなのがあって、それをマスターしさえすればそれらしい小論文が書けるとおもっている。
 へたをすれば教える側の先生の中にも、そういうフォーマットを教えれば生徒が小論文を書けるようになると思っていたりする。
 
 でも実際にはそんなにうまくはいきません。
 手紙の書き方を学んだとしたとしても、手紙を送る相手への「思い」がなければいい手紙にはならない。それと一緒です。伝えたい「思い」があるからいい手紙になるし、その「思い」をよりよく伝えようとするから、手紙の書き方(型)の意味も理解できるんです。 
 
 私たちは簡単に「生徒の文章力が低下している」と嘆いたりします。
 そういうことを声高にいう人は、その「文章力」というのを主に文章の書き方(フォーマット)を指しているように思うんです。あるいは語彙力とか、口語文法とか。
 だから「国語の先生は!」とか「国語の単位をもっと増やすべきだ」みたいな意見が出てくるのではないでしょうか。
 
 しかし、「文章力」というのは語彙や文法やフォーマットだけではありません。
 それはむしろ「中身」の問題だと思うのです。
 少なくとも小論文を書かせるうえで最も必要なアイテムは「伝えたい思い」だと思います。
 
 これがあれば、文章を前に進めることができます。
 
 そういうことを主張したいのなら、こういう文章構成にするのが効果的だろうとか、こういう具体例が適切ではないかとか、こういう切り口でアプローチした方がいいのではとか。
 そういう指導ができる。
 
 生徒自身もなぜ先生がそういうアドバイスをしてくるのか、その意味がちゃんと理解できる。
 だから、文章が向上する。少なくとも目指すべき方向性が見えるようになる。
 
「中身」と「伝え方」がうまく連携していかないとよい文章は生まれないんですよね。
 生徒にも先生にも、そういう理解が必要だと感じています。

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この記事を書いた人

1968年生まれ
東京学芸大学大学院修了
函館市私立学校に30年勤務
小論文を中心に指導

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